『数字で示せ』と、15の仕事を同時に進める"ONE TEAM"定居美徳ができるまで

【前編:数字オンチ・運動オンチの道産子ラガーマン。金利3000%のアジア通貨危機でいきなりの崖っぷち】

「何やってんだよ、アタマ使え!」
そう言われて、アタマから相手に突っこみ、「ダメお」と呼ばれていた、道産子ラガーマンが大学時代の自分です。
ポジションはスクラムの一番前のプロップ。
「お前はボール触らなくていいから、スクラムだけやってればいい」と言われ、公式戦に出られたのは、最後の1試合だけ。
それまで大学の4年間は、言われるまま、ひたすら首を鍛え続けていました。

こんな自分は、昔から不器用で、人の3倍努力して、やっと1人前。
心配した両親に言われるまま、地元の高校・大学に通いました。
両親に言われるまま、卒業したら地元で公務員になるつもりでした。

ところが、時代はバブル景気が終わって、超がつく就職氷河期。
採用は前年の半分以下、あるいは新人採用なしという企業も多かったことを覚えています。
ラグビー部を休部してまで公務員の勉強をしたのに、人気の公務員試験には、間に合いませんでした。
そこで、生まれてはじめて飛行機に乗り、総合商社に面接に行きました。
内定は、前年の半分以下、しかも一般職の採用はゼロ。そしてなぜか内定者の3分の1がラグビー部出身。
その中の1人が、自分だったのです。
東京で満員電車に面食らいながらも、社会人デビューしました。

ただ、1つだけ問題がありました。
なんと、数字オンチの自分が配属されたのは財務部だったのです。
それでも、上司に言われるまま、ラグビーの気合いと根性で日々を仕事をこなしていました。

数字オンチ・就職まで飛行機に乗ったこともない道産子の次のチャレンジは、香港でした。
とある事情で、同期の代わりに、自分が選ばれたのです。
そこで目にした仕事は、想像を超えていました。
毎朝200本の電話で銀行との取引から1日が始まります。

両手では足りず、アシスタントに持ってもらい、同時に4つの電話を使いこなす為替ディーリング。
その合間に現地スタッフや駐在員からの相談。
午後は香港の高層ビルで打ち合わせ。夕方にオフィスに戻って日本へのレポートや翌日の準備。
気合いと、根性と、栄養ドリンクで、なんとか1年サバイバルできるかも。
と夜中のタクシーで半分寝落ちしながら、自分に言い聞かせていたのも、つかの間のことでした。

香港に赴任して1ヶ月、前任の先輩が帰国直後に、アジア通貨危機が発生したのです。
ヘッジファンドと政府の攻防で、金利3000%という、とんでもない大混乱。
取引先は次々と倒産し、日本の銀行も香港から撤退していきました。

そんな中、数字オンチで不器用な自分が、銀行の支店長を説得できるはずもありませんでした。
自分の悪い説明のせいで、数億円のローンをすぐに返すよう言われたこともあります。
本社の緊急対応で最悪の事態はさけられましたが、もしかしたら『香港発!総合商社が破たん』
といった見出しが新聞を賑わせていたかもしれません。
自分は、ひたすら頭を下げることしか、できませんでした。
そして、30ほどあった取引銀行が、1年後に帰国したときには、たった3つになっていました。

やっとの思いで日本に戻った自分は、つかれきっていました。
数字とは二度と関わりたくない。
数字は、恐怖の対象でしかありませんでした。
もう数字はあきらめて、北海道に戻り、数字とはまったく関係ない仕事をしようかとも考えました。
でも、数字から逃げようとすればするほど、不幸な未来が頭に浮かびました。

そこで、一念発起。
せっかく香港でがんばったんだから、世界で通じるスキルをちゃんと身につけよう。
というわけで、数字と英語の資格勉強を始めることに。
TOEICのために、英語のテープを、一晩中左右別々で聴きつづけたり。
アメリカの公認会計士のために、朝は6時から会社最寄りのファーストフード。
夕方と週末は、新橋の予備校に通う日々。
その予備校で配られた1枚のアンケートが、さらに自分を追い詰めることになるとは、想像もしていませんでした。

【中編:100 キログラムから100kmへ。外資系企業崖っぷちから、アジアCFOへの下剋上】

予備校で配られたアンケートは、「将来のキャリア」でした。
「米国公認会計士に合格したら、どんな仕事をしたいですか?」
「米国公認会計士に合格したら、どんな会社に転職したいですか?」
数字にウンザリしていたとはいえ、職場自体は好きで、良い上司にも恵まれていました。
ましてや、転職なんて、考えたこともありませんでした。
だから、アンケートもあまり深く考えず、提出したことも忘れていました。
そんなある日、「紹介したい会社があるんですけど」と一本の電話。
「せっかくだから」と、気軽に行った面談で、人生が変わるとは想像できるはずもなく。

インタビューの相手は、イギリスの方でした。
「香港で財務の経験があって、会計の勉強もしてるんだね。だったら俺が君を財務のプロに育ててやる!」
英語でしたが、自分にはそう聞こえました。

その力強い一言で、転職を決めたのです。

インタビューが終わってから、アンダーセンコンサルティング(今のアクセンチュア)という会社のことを知りました。
どんな会社かよくわからなかったのですが、仕事は同じ財務だし、彼も自分を育てるって言ってくれてるし。
なんとかなるだろうと思ってました。

でも知らなかったんです。外資系の当たりまえを。

自分で考え、自分で行動し、自分で結果を出す」これが、外資系の当たり前だったのです。
さらに、自分自身の評価のアピールもしなければなりません。

イギリス人の上司に出したレポートは、句読点以外に正しいものがないくらい、真っ赤になってダメ出しが返ってくる。
自分のクライアントだった事業部長は、部下にも自分にも一流のプロであることを求めました。
自分が新人だろうと関係ありません。どうして急に呼び出されたかも分からない自分に、次々とリクエスト。
数字オンチで、自分のアタマで考えられない自分に、つとまるはずもありません。
電話で呼び出されるたびに、机にあるキングファイルを両手いっぱいに抱えて、500メートルほどはなれた事業部長のオフィスにダッシュする日々。

ストレスで毎日暴飲暴食。週2回は焼肉で、残り3日は居酒屋。
家に帰るとビールで、シュークリームを流しこむ。
週末は朝から飲むか、ホテルのビュッフェで現実を忘れるまで、ひたすら呑んで食べる。
あっという間に体重は100キロを超えていました。

さらに、転職してすぐ、東京自由が丘に新築マンションを頭金ゼロで、衝動買いしていたのです。
住宅ローンで、逃げ場もない。
崖っぷちどころか、後戻りもできません。
常に体調も悪く、月に何度も点滴を受けてから出社していました。

オフィスで「使えない」と言われても、どうしてよいか分からない。
仕事を辞めたくても、辞められない。

そんな、絶望的な状況から抜け出したキッカケが、ズバリ、シンプルな「数字で示す」ことでした。
それは、イギリス人上司の背中に書いてありました。

日本人の優秀なコンサルタントの厳しい要求を、次々とクリアしながら、独特の雰囲気で周りを和ませる。
そんな彼がやっていたのがシンプルな「数字で示す」ことだったのです。
「財務のプロに育てると言ったんだから、最初から教えてくれればいいのに」と思いながら。
見よう見まねで、シンプルな「数字で示す」ことを心がけました。
失敗しようが、怒られようが、何も失うものもありません。

そうしていくうち、少しずつですが、相手のリクエストに応え、自分のペースで仕事ができるようになってきたのです。
年末に、日頃から厳しい事業部長が、ポツリと一言。
「頼れる自分の右腕が、やっとできた」
これが、自分が天職として、15年間走り続けた、CFOキャリアの原点です。
社長は、先の見えない未来に孤独を抱えながらも、進み続けなければなりません。
そんな社長を支え、照らし続けるパートナーであるCFO、つまり財務最高責任者になろうと決めました。



そんな折、イギリス人上司が、急に帰国することになりました。
なんと、当時20代で一番経験が浅く、元数字オンチだった自分を、後任として指名。
日本の財務のトップに選んだのです。

結論からいえば、残念ながら、自分は力不足でした。
個人では「数字で示し」、仕事ができるようになっていたものの、
チームのリーダーとして十分に役割を果たすことはできませんでした。
日々の仕事をこなし、目の前の問題をこなすのがやっと。
リーダーでありながら、明るい未来を示すことも、
自分よりキャリアも経験もある、先輩部下の悩みに寄り添うこともできません。
常に気まずい空気が流れていました。

1年ほど日本の財務統括として仕事をしたあと、リーダーシップを1から学ぶべく、経営も人材育成も世界最強といわれたGE(ゼネラル・エレクトリック)に転職を決意しました。

GEは、控えめに言って、自分にとって理想の会社でした。
定年まで働いていたとしても、不思議はありません。
自分が将来こうなりたい!と思ったリーダーが、周りにたくさんいて、優秀な部下にも恵まれました。
リーダーシップを一言で表すと「自分も、チームも成果を出す」こと。
そのために必要なのは、ズバリ自分の覚悟と、未来の幸せなゴールです。
そこで身につけたのが、リーダーとして「数字で示す」ことでした。
化学品とヘルスケア部門で、日本の経理部長や、アジア太平洋地区のCFO(最高財務責任者)など、ファイナンスリーダーとして、200〜500億円のビジネスを2桁成長させ続けると同時に、アジア8カ国の部下を成長させることができました。

また、ヘルスケアで仕事をしていたころ、世界全体のプロジェクトである「ヘルス・アヘッド(その先の健康へ)」のリーダーも担当しました。
「世界を健康にする会社の人間は、自分自身が健康の模範であるべき」ということで、
運動や禁煙、栄養やストレスなど、100以上のチェック項目をクリアすべく、いろいろなことを行いました。
運動も、健康のその先へ。
当時ハマっていたフルマラソンから、100キロのウルトラマラソンにチャレンジし、完走しました。
100キログラムだった自分が、100キロメートルを走り切る。アクセンチュア時代とは全く別の自分です。

とはいえ、あらためて振り返ると、決して平坦な道のりではありませんでした。
ある日、急にビジネスがGEグループから売却され、リーマンショックが重なり、100億円のキャッシュフローの改善を、半年で行なわなければならない。
新しいビジネスを担当することになり、インドに出張して帰国した翌日に東日本大震災が発生。
前のビジネスと新しいビジネスの両方で、緊急対応を行なわなければならない。

それでも、お互いを思いやりながら結果を出していくチームと一緒に仕事ができました。
10年に一度の基幹システムを自分たちだけで実現したり、1年で4件のM&Aを同時に進めたり、手のひらサイズのエコー(超音波診断機器)を世界でいち早く医療現場に普及させたり。
やりがいにあふれる日々でした。

一方で、プライベートでも100キロマラソンから、さらに先を求め、立ち止まったら寒さで命の危険につながる、冬の佐渡島200キロや、山中を100キロ走り続けるウルトラトレイルなど、チャレンジを止められない自分もいました。
どんなに仕事が大変でも、100キロ、200キロ走ることに比べたら、乗り越えられるという感じでした。
それでも、長い目でみれば、外資系に転職して、がけっぷちから大逆転し、財務のキャリアを駆け上がりCFOになったということで、ハッピーエンドを迎えるはずでした。


ところが、さらに大きな転機が訪れます。
外資系に転職したときも大きな衝撃でしたが、それと比較にならないほどの大きな変化が。

【後編:外資系キャリアゴールの先はスローライフではなく、新型コロナの落とし穴。サバイバル戦略は、1人15ポジションと、あたたかいお金と、『数字で示せ』】

きっかけは、義理の兄が妻と再会したときの一言でした。
「自然豊かな場所に住みたい?美瑛町とか、東川町とか、良いんじゃない?」
実は、山を走るようになってから、週末は東京以外のところに住みたいと思っていました。
山梨や長野など、山があり水がおいしいところで、二拠点居住できればと妄想していたんです。
でも、さすがに北海道は選択肢に入っていませんでした。

義理の兄の口から出た「東川町」、生まれも育ちも北海道でありながら、その町を知りませんでした。
気になって町のウェブサイトをチェックし、せっかくだからと航空会社のマイルを使って週末に行くことにしたのです。


そこは、まさに自分たちがイメージしていた環境でした。
遠くに広がる圧倒的な存在の山々は、行ったことはないヨーロッパの山脈を想像させました。


さらに山からの雪解け水で暮らす生活。なんと蛇口からミネラルウォーターが出てくる。
本当に良いところだけど、会社まで北海道から通うわけにもいきません。
「また来ようね」「将来定年したら住めるかもね」と町のログハウスに宿泊しました。

そして次の日。運命の出会いが起こります。
町を歩いていると、黄色いヘルメットをかぶった5人くらいの小学生が。
すれ違いざま、よそ者の自分たちに、「おはようございます!」と元気なあいさつ。


この一言に、完全にノックアウトされました。
都会では知らない人に「声をかけない・目を合わせない・ついていかない」のが、子供の「ふつう」なのに。

そんな折、歩道の段差につまづいて骨折します。
山の斜面を転がり落ちても、平気だった自分が。
今から思えば、外資系キャリアと、100キロトレイルという
「ひたすら、上へ、上へ」の人生を見直すためだったのかもしれません。

松葉杖でヨロヨロ歩きながら、どうやったら、移住できるかを考え始めました。
もちろん簡単ではありません。仕事はどうする?収入は?住む場所は?
何より、GEでのCFOという仕事は自分の天職だと思っていました。
それを手放すのは、やりがいのある仕事や、大事な同僚、社会的地位はもちろん、
20年間の自分の努力と自分自身を手放すこと。

今のようにリモートワークという選択肢もない。
移住先には、スキルや経験を活かせる外資系企業・大企業もない。
悩みに悩み、迷いに迷いました。
常識で考えれば、無謀すぎるのは明らかです。


そんな時に背中を押してくれたのが2人のメンターです。
1人が、日本トップのマーケッターで、ベストセラー作家の神田昌典さんでした。
神田さんの書籍には「企業ではなく地方での新しい活躍する時代が来る。2015年からそれが本格化する」と書かれていました。東川町でのデジタル地域通貨の取り組みにも、多くのアドバイスをいただきました。
もう1人が、ベストセラー作家の本田健さん。
やっとつかんだ理想のキャリアを守り続けるか、新しい環境に飛び込むか、迷っていた自分に「大好きなことをやって生きる」未来を示し、背中をそっと押してくれました。
さらに「よっしーは、将来本を出すよ」と出版の未来のタネを頂きました。

まさか、「出版」という未来のタネが、8年後に芽を出し、出版記念セミナーでお2人とご一緒させていただくことになるとは、夢にも思いませんでしたが…

さて、東川町での仕事です。
「地域おこし協力隊」という総務省の制度を活用し、町の臨時職員になることが決まりました。
仕事は商店街・町内経済の活性化です。

そこで、最後まで残った問題が住むところです。
後から知ったのですが、東川町は人気があり、賃貸物件がほとんどなかったのです。
しかも13歳になるワンコ(黒柴)がいる。こうなったら家を買うしかない。
でも、さすがにはじめての町・はじめての仕事で、しかも年収が1ケタ下がった状態で、手持ちの現金をすべて使って家を買うのは、チャレンジという限度を超えている。


そんなときに出会ったのが、もう1人のメンター、お金の専門家でベストセラー作家の菅井敏之さんでした。
引越しの1週間前。荷造りをしている途中に、本棚から手に取ったのが菅井さんの『お金が貯まるのは、どっち?』でした。
菅井さんが運営されているカフェが隣の駅にあると知り、もちろん面識もないまま来店。
そんな自分に親身に相談に乗ってくださった菅井さんから、「地域の信用金庫に相談するといいよ」アドバイス。
そのおかげで、住宅ローンを借りることができました。
結果、資金不足で東京に出戻りせずに済んだんです。その後も読書会や講演の開催や、アドバイスを頂いたり。


『数字で示せ』のあとがきにも書いてありますが、こうした貴人との出会い、さらにいろいろな場面で仲間の応援がなければ、今の定居美徳は存在し得ないことは、あらためて感謝と共に記載せずにはおれません。

さて、このように仕事が決まり、家も決まり、移住が実現しました。それでも、実はすごい綱渡りでした。
東京のマンション売却と東川町の自宅購入が決まったのは、移住の3日前。
たまたま売却も購入も同じ不動産会社だったため、自由が丘のオフィスで自宅の売却と購入を同時に行いました。
なんとか契約が終わって、20年続いた東京生活を寂しいと感じる間もなく、飛行機に乗り込み、東川町での新生活がスタートしました。

商店街の活性化と言われたものの、商店街の皆さんに、日々経営のアドバイスするのは正職員の仕事です。
じゃあ、自分の仕事は?
自分の席を置いていただいた商工会のオフィスは、道の駅の2階にありました。
まずは、10月だったので道の駅の周りの落ち葉掃除。
11月になり、雪が降ると雪かきの毎日。
オフシーズンということで、大きなイベントも、プロジェクトもなく、雪に包まれた静かな日々が続きました。

そんな中、はじめてのプロジェクトをまかされます。
しかも、数字の目標つきで!
それが、ズバリ「冬祭りのために、マイナス20度の中で雪だるまを100個つくること」でした。
実は、マイナス20度では、寒すぎて雪が固まらないんです。
なので、写真のように、たい焼き器のような型に雪を詰め込み、水を入れて固めるのです。


つくった100個の雪だるまに、日本語を学びに来日している外国人留学生が思い思いに飾りつけをして、冬祭りにならべました。これで、ミッションコンプリート。

このように、これまでのスキルも経験も通用しない。人脈もない完全なゼロスタート。
「お店をはじめたい」「家具をつくりたい」「観光ガイドになりたい」といった目的を持って移住される方が多い中、
自分たちは「一目惚れした東川町に住みたい」というのが移住のきっかけでした。
だから、具体的な目標やゴールもない。でも時間は過ぎていく。

そんな自分の、3年間のサバイバル戦略は以下のとおりです。


1年目の戦略は「まずイエス」。
頼まれごと、相談ごとに、2秒で「はい、やります」と答える。
イベントの呼び込みや、祭りのテント張りなど、考える前に「イエス」と答えてそれからどうやるか考えたり、相談したり。イギリスから来日したスノーアートを学びに真冬の青森に行き、タンクトップで汗びっしょりになりながら、一日中雪を踏み固める。家具とカフェのコラボイベントを地元フリーペーパー会社と企画する。かと思えば、誘われるまま、アメリカ西海岸シリコンバレーでの本田健さんのセミナーに行き、宿のオーナーからAirB&Bを学んだり、現地のテレビに出たり。

2年目は、スキルを活用する。元外資系CFOといってもイメージが伝わらないので、「数字」「英語」ができる人ということで。海外からVIPが訪れた時の通訳や、町に300人ほどの日本語学校で学ぶ外国人留学生の就職支援、起業家イベントの企画・運営などを担当しました。

そして3年目。自分のオリジナルということで、講演・セミナーや、デジタル地域通貨HUCの立ち上げなどを行いました。また、当時まだビットコインくらいしか知られていなかった、ブロックチェーン技術による地方創生事業のプロジェクトマネージャーを始めたのもこの頃です。

自分自身の新たなライフワークとも言える「デジタル地域通貨HUC」の誕生から現在に至るストーリーは、別のところで詳しくお伝えします。
HUCは、小さな町のDXのモデルケースとして、町民の8割が利用し、全国ではユーザーが15万人、経済効果は10億円を超え、新型コロナ対策や、町民の健康向上、生活支援など、東川町の日々の生活に欠かせないエコシステムになっています。2019年に、経済産業大臣から「はばたく商店街30選」にも選定されました。
グローバル企業では実現できなかった、誰1人取り残さない「あたたかいお金」として、町に関わるすべての人に使われています。


町での仕事は、地域おこし協力隊の制度に従い、3年間の臨時採用という立場で進みます。
任期を終えたタイミングで自立できるよう準備しなければなりません。
ということは、デジタル地域通貨・起業家支援・国際化など、地域活性化に関わりながら、起業準備を進める必要があるということです。

そこで、自分たちが選んだのは宿泊施設の経営でした。
東川町には2つの温泉があり、そこにはホテルもありますが、町中心部から20キロ以上離れています。
当時、中心部に宿泊施設はほとんどありませんでした。
そこで移住時にやむなく購入した、夫婦2人と黒柴1匹では広すぎる2世帯住宅の1階部分を改装し、コンドミニアムとして提供しました。
すると、宿泊の9割以上がアジアからの家族連れ旅行客で、予約サイトでも高い評価もいただくことができたのです。


これが東川町で自分が生きる道だ!、と手応えを感じました。
そこで、町中心部に宿泊施設を新築すべく融資を受けて、完成したのが2019年の8月の終わり。
2019年のピークには間に合わなかったものの、2020年の予約も順調に増え、前職の同僚であるインドからのツアーも決まりました。新たに迎える、2020年は明るいものになるはずでした。
町に一目惚れして、無謀なゼロスタートをはじめ4年あまり。
東川町での起業がやっと軌道に乗った安心感で、駅伝でタスキがつながれる様子を、テレビで応援していました。
しかし…

新型コロナです。1月のはじめにテレビでふと目に止まった海の向こうの伝染病のニュースが、次の週から海外宿泊のキャンセルの嵐として、まさか自分にも降りかかろうとは。
さらに世界中が外出すらできない、ロックダウンを誰が予想できたでしょう?

予約のキャンセルを知らせる予約サイトの通知音が鳴り止まない1ヶ月。
その通知音が止まった2月までに、キャンセル額は前年1年間の売上合計の1.5倍になっていました。
そして、3月以降の宿泊のお客様はわずか9組。年末までの稼働率はたったの1.8%。2021年も2.6%。
1ヶ月に宿泊が1組あるかないかの状況は、結局丸2年以上続きました。

新型コロナの影響は宿泊施設だけではありません。
パートナーがヨガを提供するスタジオを併設していましたが、もちろんすべて中止。
さらに、やっと関係ができスタートした、企業コンサルティング・講演もすべてキャンセルとなってしまいました。
これはマズイと、政府の融資制度を申し込み、感染防止などの補助金も次々と申請しましたが、そもそも売上がないので手元の資金は流れ出すばかり。
新築した宿泊施設のローンと光熱費は重くのしかかり、通帳残高の「恐ろしい数字」と向き合わなければなりませんでした。同じような想いで、眠れない日々を過ごされた方も多いのではないでしょうか。


それでも、捨てる神あれば拾う神あり。頼りになるのは人のつながりです。
シリコンバレーのベンチャー企業で日本法人の社長をしていたGE時代の同僚から、急に連絡がありました。
「フルリモートで良いから手伝って欲しい」と東川町で暮らしながら、仕事をすることになりました。
もっとも、東京のオフィスに行こうとしても、外出自粛で飛行機にも乗れない状況でしたが。

リモートCFOといえば聞こえは良いですが、管理部門は自分1人。
財務経理だけでなく物流・人事・法務・総務など営業以外の仕事をすべてリモートで行いました。
北海道で東京の実務をしながら、アメリカやヨーロッパの同僚とプロジェクトを進める。
まさに新型コロナによって実現した、新しい働き方です

朝はアメリカ西海岸の上司と会議をして、日中は東京の仕事、夕方からはベルギーなどヨーロッパの同僚とZoom。
これだけ聞くと、一日中仕事をしているようですが、実際は合間に東川町の仕事をしたり、オンラインで講演したり。
自分でスケジュールを設定して仕事ができるのもリモートの良いところです。
地元大雪山の自然と共生するNPOの理事や、商工会の役員、大学ベンチャーのメンターや、インドの元同僚とのデジタル事業。高校時代の同級生と30年ぶりに再会して、6万人以上が参加する教育イベントを企画運営したり、そのご縁で、ユネスコデザイン都市のアドバイザーに任命されて国際会議に参加したり。


どんどん仕事が増えて15になったので、もう数えるのはやめました。
学生時代にやっていたラグビーでも1チーム15人。
15の異なるポジションを同時にこなす「1人ONETEAM」は、新しい働き方を超えて、複業家という新たなライフスタイルといえるかもしれません。


ちなみに、シリコンバレーのベンチャー企業でのリモートCFOの仕事は、ファンドへの資本売却のタイミングで、突然終了しました。

そんな折、ご縁をいただいたのが、出版です。
これが過去のキャリアという時代の変化と、1人15ポジションという新しいライフスタイルで、一見バラバラだった自分を1つにつなぐことになります。
きっかけは、友人が出版記念で行なったクラウドファンディングでした。
そこでリターンとして申し込んだのが、世界1500万部「人生がときめく片付けの魔法」をはじめ、ベストセラーを数多く輩出されている高橋朋宏さんの出版グループコンサルティングだったのです。
そこで高橋さんの出版ゼミの存在を知り、自分が人生をかけて伝えたい一言を見つけ出し、一冊の本を通じて、世界に伝える志を共有いただくことになりました。

出版ゼミ最終日には、自分が世に出したい一冊の本を、多くの一流編集者に対してプレゼンします。
そこで出会ったのが3年連続ビジネス書籍ナンバー1、ミリオンセラーの「人は話し方が9割」の編集者である、すばる舎の上江洲安成さんでした。
「数字で話す」本をつくりませんか?と上江洲さんから言われたとき、正直なところ、ピンときませんでした。
と言うのも、15年にわたって、アクセンチュアとGEで身につけ、さらに東川町でも意識せずに使っていた「シンプルな数字で話す」ことは、もはや自分にとって、呼吸をするように当たり前のことだったからです。

しかし、2人3脚で書かせていただくうちに、実は、自分が世の中に伝えたい一言が「シンプルな数字で話す」ことだったのだと実感したのです。
ラストスパートは編集の大原さんとの校正。
圧倒的な読みやすさに仕上げていただきながらも、出張先から航空便を送ったり、夜に宅配便に滑り込んだりと、バイク便の使えない北海道と東京の距離を感じました。また、営業の皆さんとの販促戦略といった総力戦。
さらにFBライブや、クラファンと、不器用ながら、多くの仲間にも助けていただき、できることはなんでもやりました。
最初にお話をいただいてから、出版まで1年11ヶ月。
ついに、『数字で示せ』誕生の瞬間を迎えました。

(『数字で示せ』完成記念FBライブ(上江洲さんと定居))

このように、『数字で示せ』という一冊の本に込められた、多くの仲間の熱意が伝わり、出版日前に重版が決定しました。
さらに、地元北海道新聞での紹介、日経新聞や中日新聞での広告もいただき、1ヶ月で再度重版になり、全国の書店・オンラインで多くの方に手に取っていただいています。


世界のビジネスの共通言語である「数字」。
これは一部のエリートや専門家だけのものではありません。
数字を苦手に感じ、できるだけ数字を使わないようにしている。
いい人だけど「数字オンチ」な、ビジネスパーソンにこそ、お伝えしたい。
グローバルビジネスだけでなく、地方のまちづくりでも。
もっと言えば、だれにでも使えるコミュニケーションの道具なので、家族や友人関係でも。

むずかしい数学は必要ありません。
小学生レベルの算数が分かり、ちょっとしたコツ「いつ・いくら・何%」を、数字で話せればOKです。
まちがえてもいい」から数字で話すと、スピードも、協力も、評価も何倍にもなり、仕事の成果が出る。
今の仕事で結果を出すだけでなく「好きな場所・好きな仲間・好きな仕事」で活躍できる。
豊かで自分らしい人生が実現する。

これが、不器用で数字オンチだった自分が、外資系CFO、最高の環境で複業家、さらにミリオンセラー編集者とタッグで出版を実現させる。人生のサバイバルを生き抜いてきた秘訣です。
新しい環境や人間関係、未経験の分野や、未曾有の事態で、どうにもならない崖っぷち。
そんなときにギリギリで自分を支えてくれたのが「シンプルな数字で話す」ことだったのです。

すばる舎の皆さんのおかげで『数字で示せ』に、すぐに使えるエッセンスを詰め込むことができました。
こうした経験を活かし、200団体以上の学生・ビジネスパーソン・自治体向けに講演を行い、シンプルな数字で成果を出す方法や、未来のまちづくり、新しい働き方を伝えています。
北海道・日本・海外の好きな場所で、本当に好きな仲間と、15の好きな仕事で「シンプルな数字」と一緒に、熱く楽しくチャレンジを続ける日々です。

【講演実績はこちらから】
【東川町デジタル地域通貨誕生秘話】

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